Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

この狂乱するサーカス

「この狂乱するサーカス」ピエール・プロ。サンリオSF文庫につき絶版。

フランスは意外にSF好きな国民性のようである。そういえば、日本のいわゆるアニメオタクも、多数フランスに生息しているそうな。
なにか共通点があるのかもしれない。

この作品は、1978年フランスSF大賞グランプリ作品なのだが、画期的なことにフランス人作家の手になる。SFの世界というのは、基本的にアメリカ作家が幅をきかせる世界だから、これは珍しい。
内容は、まぎれもなく現代社会への風刺であり、読者サービスは控えめである。外国において高評価のSF作品というのはそういうもので、痴呆化した日本作品とは少々違うのである。SFと主流文学の垣根が低いのである。
日本のように「士農工商犬SF」というのではない。日本において、外国のSF作家と地位的に近いのは筒井康隆くらいのものじゃないかと思う。

さて、この小説の世界だが、たいへん面白くて、人は映画の世界でしか生きられないのである。
職業は映画関係のシナリオライターや役者、その他のスタッフだけ。で、どこかで「大衆」という人たちが生きていて、その人たちの嗜好に合わせた作品をつくることになっている。
作品のガイドラインは、とにかく異星の荒野だとか、遙か遠い別世界だとか、いわゆる我々が考える「現実世界」ではない舞台でなくてはいけない。
演技は常にスタントマンなしのガチンコである。映画上で「ぶっ殺される端役」になると、ほんとにぶっ殺される(笑)
しかし、それしか職業がないので、人は、まず映画関係者の目にとまって、端役になり(うまいこと生き延びて)何作か有名な作品に出演し、「映画年齢」を重ねるしかないのである。
うまくいってスターになると、カリブ海(かどうかは知らないが)に別荘、クルーザーをもち、絶世の美女を侍らせて酒池肉林のスターな生活を送れる。
そのうちの一人が、本作品の主人公シティズンで、彼は人気作品「ゾロナップシリーズ」の主演を張り続けている。
ところが、そのシティズンは、ある日突然、この映画の世界が偽物だという天啓がひらめいてしまう。
なにしろ、映画を視聴しているはずの「大衆」なるものを、まったく見たことがないのだ。なのに、恐ろしいスピードで、次々と作品が創られていく。
ひょっとしたら、この世界も、美女も、みんな作り物なんじゃなかろうか?
とうとうある日、爆発したシティズンは、なぜか意気投合したマリリンとともにテロ行為を起こし、この映画世界からの脱出をはかる。
しかし、外部へ通じるパイプには、弾丸列車が走っており、マリリンはシティズンをかばって突き飛ばし、自分は轢断されて死ぬ。このシーンは壮絶だ。
そして、ようやく外部にたどり着いたシティズンは、ついに大衆を見るのだ。
その大衆は、薄汚れた格好のシティズンがいても、誰も気にとめないのだった。強引に彼らの生活に介入しようとしても、彼らは単に「事故だ」とつぶやくだけだ。
彼らは、黙々と生産活動を行い、ちいさな部屋に帰る。
その部屋の中には、ヘルメット型の映写装置を備えたベッドがあり、大衆はそのヘルメットをかぶって映画の世界の夢を見るのだ。
それだけが、彼らの生活だった。
シティズンは「やめろ、そんなものはない、そんな世界は嘘だ」と叫ぶ。
しかし、誰もシティズンの言葉に反応するものはいない。この大衆世界にも、もとの映画世界にも、シティズンは存在する場所がない。彼は、あてのない放浪の旅に出て生き延びるのだ。
「万事順調だ」とシティズンはつぶやく。あてのない世界をさまよう自分こそが、順調である証なのだ。。。

評価は☆。
サンリオSFにしては珍しく、まともな日本語の本である(苦笑)。
作者の現代社会批判もよく伝わる。皮肉屋のフランス人達に人気が出たのも頷ける。

我々は、毎日仕事をしている。
公務員を除き、民間の仕事は、基本的に「市場」を相手にしている。その市場で、評価をもらうのが大事なことである。
しかし、自ら育てた作物や作り出した製品を、そのまま市場へ販売するケースは既に稀少だ。農家は農協へ出荷するだろうし、工場は商社へ出荷する。そして、常に「市場」を意識しなれば、成功は得られないというわけなのだ。
農協や商社が、そのまま市場であるかというと、そんなことはない。彼らは、市場の一部の代表であるに過ぎない。
我々は、まったく見えない、わけのわからない市場のために働く。
見たことのない「大衆」を相手に映画を撮るシティズンと、似たり寄ったりなのだ。
しかし、もしもそこで、我々が、わけのわからない市場を捨てて、素朴な生産直売の生活を目指したところで、ようやく目にした市場(消費者)が、そこでビビッドに反応してくれるとは限らない。
むしろ、そうでない可能性が高い。彼ら自身も様々な製品を生産しており、そして、わけのわからない「市場」を介して供給された商品を無批判に受け入れて生きているだろうから。
だから「気づいてしまった」ら、そこから逃走しようにも、もう安住の地はない。そのまま、一生、放浪しなければならないのだ。

覚醒と不安定さのセット、これがこの作品のテーマである。
しかし、である。実は、みんなが「覚醒」しているのかもしれない。
ひょっとしたら、自分だけが覚醒しないで悩んでおり、ほかのみんなは既に悟っているのかもしれない。
「私は気づいた」というのは、鼻持ちならない勘違い、根拠のない自信、ただの自惚れかもしれない。
ほかの人はだまされている、私は賢明だ、そう思いこめば、それなりに幸福感があるのかもしれないが、くだらないことのようにも思える。

この作品にシンパシーを感じる時期を、私は既に通り越してしまったのかもしれないね。