Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

事件編-義務と権利

長崎県西海市の山下さんは、三女がストーカーにつきまとわれ、その母親まで含めて二人の女性が結局ストーカー男に殺されたという悲劇がおきた。事前に警察に相談したにもかかわらず、警告だけで被害届の提出も「1週間まて」と言われてしまい、その10日後に事件が起こった。
山下さんは「黙って殺されろというのと同じ」として、犯人に死刑を求めておられる。
当然のことである。
なくなられた被害者の方のご冥福をお祈りする。

さて、このようなストーカー殺人がおこると、決まって「そういう男と安易につきあった被害者にも隙がある」といった自己責任論が展開される。
この議論だが、私はどうかと思う。

まず、そもそも、ストーカーなどという連中は、第一印象はたくみに装っているものであろう。まさか、「私はストーカーです」というプラカードを、首からぶら下げているはずもないではないか。
これは、皆が「危ないので行くな」というイラクに行ったのとワケが違う話である。事前に察知しろということが無理と思うべきである。

次に、警察の対応であるが、被害者にはお気の毒ながら、無理からぬところもあると考える。なにしろ、ストーカー行為と、愛情のあまりの追っかけは紙一重である。年配の警察官が、おのれの若いころを思い出して「まあまあ、しばらく様子をみてやんなさい」と警告程度で済ませるのが、そんなに間違っているとは思われない。おそらく、その種の相談は、枚挙にいとまがないであろうと想像する。若い人の恋愛は、しばしば暴走するものだ。それらの人たちに、一人づつ警官を配備することは不可能である。
まして、いくらアタマにきても、それで可愛さあまって憎さ百倍、人を殺してしまう吉外はそうそういないのが常識である。
よって、警察は「ことが起きてからでないと動かない、役立たずだ」と批判される。
しかし、ことを起こす前に、片っ端から警察が逮捕拘束したら、それはどえらい事態であろう。日本国憲法には、何人も逮捕される場合以外は行動の自由を歌っているのである。犯罪を起こす前に拘束するのは特高警察に等しい「思想の管理」につながるおそれがあるではないか。

さて、そうであるとすると、いったいどのようになるのか?
つまり、自己責任の範囲で行動の自由が保障されるかぎり、このような事態も甘受せねばならぬのか?という疑問がでてくる。
もちろん、それらを「自由な社会のコスト」と考えることもできる。または、江戸時代のように、そもそも自由恋愛をご法度にしてしまえば、親戚一同の認めた男しか付き合わぬのだ。安全である。

「黙って殺されろというのか」そういうような憲法の条文も、どこかの国にあった。。。そういう「人権派」の人たちは、オウム事件のとき、なんと言ったか?人は、結局自分に都合の良いときしか、ものごとを信じない。原発事故の科学者をみよ。少しの被爆でも危険だという学者はカルトめいているが、しかし「原発はこわれない」「プルトニウムが飛散することはない」とテレビで述べた学者連中は、事実と異なることを平然と述べたわけで、負けず劣らずのカルトである。
人の立場によって、学者の発言の引用がことなるわけで、人は自分が信じたいものしか信じない。
閑話休題

私はここで、ラディカルな主張をしたい。
すなわち、殺されるかもしれないというコストを引き受けなければならない(自由で民主的な社会のためには仕方がない)のであれば、自己防衛する権利を人に与えなければならないだろう。
か弱い女性が、一発ストーカー男に食らわせて退散させることは難しい(できれば、それに越したことはない)。であれば、人に金銭をもって頼むという方法がある。
これぞ、ヤ●ザさんのお仕事である。みかじめ料を払って、退散していただくのである。

警察は、暴対法キャンペーンをやっている。しかし、暴力団をなくせというなら、こういう揉め事を事前に警察が防げるという形態がなくてはいけない。
できないなら、民間による防衛機構を認めるべきじゃないかね?

私達が求めるのは、バッチが桜かどうかじゃない。守ってくれるのかどうかである。
もちろん、金を払っても、仕事をしないやつもいる。それは民間でも同じである。
ただ、選ぶ権利はあってもいいだろう、そんなふうに思うのですなあ。