Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

杜松の時

「杜松の時」ケイト・ウィルヘルム。サンリオSF文庫、絶版。

大学時代に読んで、なにやら大きな衝撃を受けた「杜松の時」である。
アメリカ女流SFの、たぶん最高峰、K・ウィルヘルムの、おそらくベストワン作品だろうと思う。

近未来の世界。世界は干ばつで大不況になっている。宇宙開発予算はまっさきに削られる。
宇宙飛行士のダニエルとクライトンの仕事も減っていくが、ダニエルは宇宙ステーションの事故のために応援に赴くことになる。
そこで、ダニエルは事故死。
宇宙開発は中止される。

ダニエルの娘ジーンは、大学で言語学を学ぶ。
そこで彼女が研究していたのは普遍文法である。彼女の研究によれば、未知の言語であっても解読可能なのである。
その彼女の研究に軍が目を付ける。研究を軍が機密扱いとして独占することになるが、ジーンはこれに反対して辞職する。
辞職をきっかけに、彼女の懇意にしていた男性も去ってしまう。
失意の彼女だが、生活のためにやむを得ず、社会保護施設に入る。
そこは、殺伐とした世界だった。そして、彼女は、ある日、男たち数名から暴行を受ける。
大きな傷を負った彼女のところに、祖父が死亡したという知らせが届く。
祖父の家は、すでに水の枯れたインディアン居留区の中にあった。彼女は、祖父の手紙に、その家に行くべきだとメッセージを受け取る。
こうして、荒涼とした砂漠の一軒家に、彼女は移り住む。
あたりにはゴロゴロとした岩肌が広がり、少しあるくと砂漠で、夜はコヨーテのなく世界。繁茂しているのは杜松だけ。水は枯れ川となっている。
しかし、実は探せば、最小限の水(生活用水)だけは得られるのだった。
彼女はある日、砂漠へ歩き出す。死のうとしたのである。
しかし、インディアンに助けられる。「まだその時ではない、月の娘よ」彼女は、幼いころに「月の娘」と呼ばれていたのだった。
インディアンたちの自然に逆らわない生き方をともに過ごしながら、彼女は少しづつ再生していく。
そこに、亡くなったクライトンの息子、アーサーが訪ねてくる。
帰還した宇宙飛行士が持っていた謎のメッセージが、地球外生命体のメッセージではないか、というのだ。
軍は、彼女をもとの仕事に連れ戻したがっている。
彼女は、あの研究は偽物だった、ただの偶然の産物で、彼女のあて推量でしかない、と拒否するが、軍は、彼女を追い詰める。
そんな彼女に、かつての父親の言葉がよみがえる。「言葉を操るものは、世界を操ることができる」
彼女は、仕事に復帰し、謎のメッセージを見事に解読したかに見えたのだが、意外な真実を明らかにする。
その彼女が帰っていくところは、やはり杜松の繁茂する荒野だけなのだ。。。

久しぶりに読んだが、かつてよりもインパクトは深い。
正直、物語後半のテンポが速すぎて、やや強引になっている点は惜しいと思う。
作者自身が、この結末を用意していたので、力技で押し込んだのがわかる。しかし、この結末しかないんだろう。
評価は☆☆。
傑作である。間違いない。

この作品自体は、あの有名な「夏への扉」(ハインライン)への強烈なカウンターパンチになっている。
男の子が描く、素朴な宇宙という夢。そこに潜む「男性原理」を、ウィルヘルムは抉り出す。
子供じみた夢想の世界、開発と発展、もっと豊かに、という上昇志向そのものに異を唱えるのだ。
それが唯一の解ではない、世の中には違う世界もあるのだと示唆する。

かつてのフェミニズム運動は、女が男になるための戦いであった。
男と同じようにしたい、という運動の方向性である。
これに対して、ウィルヘルムは違っていて、女性原理の世界を描き出そうとする。
男性の世界が、そんなに素晴らしいのか?というウィルヘルムの疑問は、今でも新鮮さを失っていない。

男の世界は、戦いであり、優勝劣敗であり、成長と発展がすべてあり、力である。
より高く、より強く、より多く、よりたくさん、より早く、それが正しくて、それを達成すれば幸福になれると考える。
その原理そのものは、資本主義とマルクス主義とを問わない。
右翼も左翼も、男性原理の枠内での争いにすぎない。

最近の反原発をめぐる論争を見ていて思う。
右翼は、たいてい原発継続を唱える。彼らは男性原理の忠実な信奉者である。
左翼は、たいてい反原発を唱える。しかし、彼らが女性原理の世界を体現しているわけではない。左翼もまた男性原理的「闘争」の手段として、反原発が有効だという判断のもとに動いている。
コップの中の争いである。
女性原理は、その枠でいえば、たとえば右翼なのに反原発の立場をとる人たちの主張のなかに垣間見える。(左翼なのに原発推進、というのは、この範疇にならないように思うが)
大地に根差した思想は、成長主義とは相いれないし、それは男性原理的なユートピアですらないのだ。
ただ、そのような思想が、いつの時代にも、ひそかに反主流の形で、細々と続いてきたのは事実であろう。それは、大いにあってよいことだと、私は思っているのである。