8月15日といえば、我が国では終戦記念日である。
さきの大戦における多数の戦没者を偲び、平和を尊さに思いを致す日でもある。
靖国に参拝する人も、まず、ほとんどがそのような考えであろうと思う。
どこかのおかしな東大教授が書いた本のように、なにも悲しみを無理矢理栄誉に変換しているわけではあるまい。
ごく自然に、平和を祈念しているものと思う。
さきの大戦における多数の戦没者を偲び、平和を尊さに思いを致す日でもある。
靖国に参拝する人も、まず、ほとんどがそのような考えであろうと思う。
どこかのおかしな東大教授が書いた本のように、なにも悲しみを無理矢理栄誉に変換しているわけではあるまい。
ごく自然に、平和を祈念しているものと思う。
かくして、ところ変われば、考え方も変わるものである。
そういう事象がここのところ、続いていて騒がしい。
そういう事象がここのところ、続いていて騒がしい。
考えてみれば、世界の人々が、みんな同じ考えになるなんて、とても気持ちがわるい全体主義の最たるものではないか。
どうして、世界が一つになる必要があるんだろう?
そんな考え方をもっていた自分が、いまさら不思議である(笑)。
どうして、世界が一つになる必要があるんだろう?
そんな考え方をもっていた自分が、いまさら不思議である(笑)。
むしろ、世界は無数であるほうがよい。
日本人は日本人である。ほかのナントカ人になろうったって、そう簡単になれるものではない。
ナントカ人になりたい奇妙な日本人ができるだけの話であろう。
日本人は日本人である。ほかのナントカ人になろうったって、そう簡単になれるものではない。
ナントカ人になりたい奇妙な日本人ができるだけの話であろう。
世界は無数であるから、無数の考え方がある。そうすると、考え方が違う人間同士であるから、色々と厄介なことも起こる。
厄介がイヤだから「世界は一つ」と言いたいのだろうが、なかなかそうはいかない。
ならば、厄介は厄介だと、すなおに思うよりほかにないのではないか。
厄介がイヤだから「世界は一つ」と言いたいのだろうが、なかなかそうはいかない。
ならば、厄介は厄介だと、すなおに思うよりほかにないのではないか。
かつて、日本は「八紘一宇」を唱えたことがあった。
世界はゆくゆくは一つであり、日本人の善意は世界にきっと通用すると、無邪気に信じた人もあったのに相違ない。
しかし、その結果、いったい何が起こったであろうか?
いよいよ、分かり合えない人を増やしただけのことだった。
世界はゆくゆくは一つであり、日本人の善意は世界にきっと通用すると、無邪気に信じた人もあったのに相違ない。
しかし、その結果、いったい何が起こったであろうか?
いよいよ、分かり合えない人を増やしただけのことだった。
人々が、皆それぞれ違うということ、私にとって素晴らしいことも夢も理想も、他の人にはそうでないということ。
今から67年前に、それはしっかりと認識されるべきだったのだと私は思う。
今から67年前に、それはしっかりと認識されるべきだったのだと私は思う。
だから、私は、8月15日にイマジンしない。
イマジンは間違っている。
ピープルが分かり合うことはない。
分かり合えない私たちを、ただありのままに認めよう。
それが、実は、すこしさみしいけれども、もっとも安らかな平和への道ではないか、そう私は思っている。
イマジンは間違っている。
ピープルが分かり合うことはない。
分かり合えない私たちを、ただありのままに認めよう。
それが、実は、すこしさみしいけれども、もっとも安らかな平和への道ではないか、そう私は思っている。