Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

老齢と病気

ふと気が付けば、今月で、なんと私も知名を迎える。
もう少しで、とうとう本ブログのタイトル変更も考えねばならん事態である。
50過ぎたら洒落にならんから、この路線はやめねばならんなあ。

しかしながら、自分についていえば、実はまったく天命など悟っていない状態である。
むしろ年中が煩悩だらけ、無明の縁無き衆生である。やれ情けなや。
ただ目先をあがいているだけである。
畜生並みじゃないかと思うのだが、どうみても、うちの猫のほうがゆうゆうと己の人生を楽しんでいるように見える。これは猫にも劣るかもしれんなあ。

しかしながら、昔とやや違ってきたこともある。
私は10年前には、120歳まで生きる気まんまんであった。
きれいな若い介護士さんに下の世話をさせながら、へらへらと生き延びるつもりでおったのである(苦笑)。
ただ、どうも、そういう執念はなくなってきた。

最近、老人医療費が問題である。
健康保険の財源は、その過半がいわゆる「後期高齢者」に使われているので、麻生財務大臣が「さっさと死なせて欲しい」と失言したが、私は心中ひそかに同意している。

釈尊はおっしゃった。
「この村で、かつて死人の一人も出ていない世帯はあるか?」と。
そう、人類が地上に発生して以来、人間が老いれば死ぬのは避けられないことで、それは自然なことだ。

老人になると病気になる、だから病気を治せ。
ならば、「老齢」という病気は治せるか?誰が考えてもわかるけど。なおせない。

歳を取ったのを、病気といえば病名がつき、病名がつけば薬湯を用いて治さなければならない。
ある人が、これを「老齢と病気のすり替え」だと指摘した。
もっともである。歳をとれば、身体も衰えて、不具合がでて当然なのである。
いたわることは大事だけどね。

病気をすべて治したら、最後に老齢という「病気」が残る、と医学は考えるであろうか?

なんとなく、キリスト教は、そう考えるだろうな、という気がする。
彼らの最大の法悦は「永遠の命を授かる」ことであるから。
最大の奇跡は「復活」なのである。

しかし、仏教徒は、そうではないであろう。
生老病死はセット商品で、バラ売りできません、というのが基本思想である。
むしろ、解脱とは「復活しないこと」を意味する。
菩薩が偉いのは、既に解脱しているにも関わらず、この世にとどまって衆生を救うからである。
幸福な人は、とっとと涅槃にいってしまえば、もう金輪際この世、すなわちセット商品の「生老病死」に煩わされなくてすみますよ、というのがウリなのである。

こういうことを思うと、どうやら、私は仏教徒的な考えがあるようである。
そりゃ実家は曹洞宗であるけれどもね(苦笑)

「自分は無宗教」なんて簡単に言う人が多いけど、死生観そのものが宗教とつながっている(ついでに人生観やら善悪も含めて)なので、単に自覚が薄いだけでなはないか、と思うのである。

熱心かどうかは別だけれどもね。