Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

官僚川路聖謨の生涯

「官僚川路聖謨の生涯」佐藤雅美

書名にわざわざ「官僚」と付してある。本書は、単に川路聖謨という幕末の人物記でなはくて、あくまで「一人の官僚の生涯」を丁寧に描き出すことを意図している。
よって、彼の個人的な心象風景に踏み込むことはあえて避け、主として役人としての事績を淡々と追う。
人によっては、感動的な偉人伝を期待するから、そこで肩透かしを食わされることになる。

川路聖謨は、もともと微禄の徒歩組足軽の家の養子であった。
父親は武士を金で買ったわけだが、その見返りは、川路聖謨自身は無給で働き、株を売った養父が扶持を受け続ける、というものであった。
何かの役につけば、扶持とは別に足し高がもらえる。川路は、当時の慣例に従い、上役連中に日参して顔を覚えてもらい、なんとか勘定方の下役に潜り込む。
やがて頭角を現し、寺社奉行へ抜擢される。
そこで、仙石騒動を見事に裁くのだが、これは時の将軍家斉の策略であり、老中松平康任を失脚させ、かわりに水野忠邦による幕閣の組成に功を現した結果となった。
これにより、川路は勘定奉行へ出世する。
開明的な川路はあやうく蛮社の獄連座しかけ、これによって遠国奉行に格下げ。
しかし、これが縁になって、当時の大きな問題であった開国交渉にかかわることになる。
交渉相手は、露西亜プチャーチンであった。
頑固なロシア的交渉術を駆使してくるプチャーチンに対し、川路は一歩も引かずに応酬する。
東洋の封建国家を馬鹿にしていたプチャーチン一行はすっかり認識を改め「機知にとんだ巧みな弁説」「ヨーロッパの社交界に出してひけをとらぬ人物」と激賞された。
ついに、日露和親条約の締結に成功し、日ロの国境画定も行った。
(このときの訳文の不備が現在の北方領土問題につながってしまうのだが)
最期は、江戸無血開城をききつつ、脳卒中による半身不随の体で形ばかりの切腹をし、用意のピストルで自ら頭部を撃って死んだ。
幕府に殉じたとも見て取れるし、小用ですら他人の手を借りねばできぬ己の体に愛想を尽かしていたというから、ついに自ら始末したともいえる。
いずれにせよ、潔い最期であった。

思うのは、幕府の役人であった川路にして、すでに「徳川」でなく「国益」を考えて仕事をしていた、ということである。
川路は官僚であるから、自ら、政策の意思決定に深く関与することを嫌った。
むしろ、政策実現に「無理難題」に苦しみつつ、一心に取り組んだのである。
自己の権益や徒党を組んで私腹を肥やす類の行動はいっさい見られない。
当然といえば当然なのであるが、しかし、自らの保身よりも国益をにらんで動いた人物が、すでにこの時代にいたことこそ、我が国に幸いというべきである。


評価は☆☆。
誠実で尊敬に値する人物である。
大きな時勢を動かす器量には欠けるのであるが、だから「官僚」なのである。
時勢を動かすのは政治家であろう。彼は、政治家ではない。
むしろ、政治家ではなく、官僚に徹したこと。それが川路聖謨の美質であろう。

よく思ったものだが「言うだけなら、私にもできる」とある。
批判は簡単である。
しかし、問題は、常に実行である。
実行するときに、しばしば、人は選ばなければならない。
何を望むか。そして、何を棄てるか。
「あれも、これも」は、成り立たないのが、我々の日常であろう。

ことに臨むには、かくのごとく、つねに真摯でありたいと思うのである。
ただ、それこそ「言うだけなら、私にもできる」
実際はできません(苦笑)
世の中は、たいがい、苦い水を飲まねばならないもののようですなあ。