Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

この俗物が

「この俗物が」勢古浩爾

俗物論に関する考察。
そもそも、俗物論を考察し、書籍を上梓すること自体が俗物であるという鋭い指摘が、著者自身から行われているので、私のような俗物読者は思わず恐れ入ってしまうのだった。
恐れ入ることで、なんとか俗物読者の範疇から逃れようと画策する私も、もちろん俗物だ。

そもそも、俗物とは何か。
福田恒存やらエプスタインやらから豊富な引用で解説がある。
どうも、早い話が、自分の実像以上に(というか、実像に関心がなく)他人に認められたいと願う人、ということらしい。
ついつい、「善人」だとか「頭がいい」だとか「大物だ」とか「芸術的センスがある」だとか、まあ、人間は背伸びして他人に見られたがる。
もちろん、そうでない人もいるが。
で、その背伸びしたい心が俗物である。

ところで、現代は非常に俗物が増えた。
なんでかとういうと、民主主義がもたらす平等ゆえであるという。
昔は、身分社会であるから、自分がどんなに才能に秀でていようが、身分が低ければそれまでである。
背伸びのしようがない。
しかし、民主主義社会が広がり、みんな人間が平等になってしまうと、背伸びした自分に手が届きそうである。
しかも、価値観が多様化、ときている。
なんでもいいのである。「世界にひとつだけの花」である。オンリーワンであるということは、つまり他人とは違う私だということである。
残念ながら、そのように、一目瞭然に他人と比べて一際輝く人物など、そうそういない。
いないけど、自分はそうだと思いたい。で、俗物のできあがり、である(苦笑)。

だから、いろんな俗物がいる。
世間を見れば、俗物だらけ。
で、そんな俗物を冷静に見ている自分は、他人とは違うと思っているのだから、これも俗物である。
それに気づいて「私も俗物である」などとわざわざ宣うのは、オノレに気付いているぞ、そんな俗物ではないぞと訴えたいわけで、つまりは俗物なのである。
「自分は俗物だと言いたがる俗物」というわけである。
なかなか、人間が俗物にならずに生きていくのは難しい。

では、俗物でない人間とは、どんな人間がいるだろうか?
著者は、一例として武士を挙げている。
何しろ、言ったことはやらねばならない。武士に二言はない。二言すれば、もう武士だと周囲から認められない。
死ぬといったら死ぬばかりである。「命がけで」などというおしゃべりはしない。
そんなセリフを吐いているヒマがあったら腹を切るのが武士なのである。

評価は☆。
実に面白く読み、自分の俗物を発見した。

そもそも、私のように書評を書くのも俗物である。
本なぞ、黙って読めばいい。
なにも他人に、ああでしたこうでしたと報告するものではないだろう。
本ブログの読者が書評を読んで「singleはなかなか賢いやつだ」と思ってくれる、そういう期待をしているのではないか。
そりゃあ、俗物そのものだ。

ゆえに、俗に生き、俗に死ぬ。
我々には、それしか許されていないのである。
「俗物バンザイ」というなかれ。それも俗物である。開き直った俗物である。

おれは俗物だったのか、ああイヤだイヤだと思いながら、今日も俗物の生なのである。ああ俗物よ!