Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

そこまで言ったらエライぞ

ビジネス上の取引先で、パー券の余りが回ってきたので、某公明党の国会議員の国政報告会に野次馬に出かけた。
なにしろ与党ではあるが、自民党ではない=傍流なわけで(失礼!)かえって与党内の動きが見えるかなあ、と。

で、まず公明党といえば、例の安保法案でさんざん揉めたわけです。
野党からは「戦争法」という意図的な誤解(笑)に基づくニックネームをもらっている法律ですな。
そのへんの合意形成について、かなりしつこく説明をしていましたねえ。
支持母体との関係ですなあ(笑)

内容ですが、ご存じのとおり、安保法は「アメリカの尻馬に乗って、世界のどこでも一緒にくっついて行って戦争する」法律ではない、ということ。このへんは、まともな報道機関であれば、すでに既報のとおりです。
内閣も、そういう解釈はできないと何度も表明しています。
この前提では「我が国に、急迫不正の侵害が起きているとき」に限られる。
つまり、日本には憲法9条がありますので「国際紛争を武力で解決すること」はできないし、そのための「戦力」も保持していません。日本の自衛隊は「防衛力」という定義ですので、直接的な我が国の防衛活動の範囲でしか、米軍との協同はできないわけです。

まあ、戦争というやつは「今から侵略します」などと宣言して行われることはないので、たいていの国が「自衛戦争」だというのですね。だから、どうなるかわからんだろ、というのが野党の言い分なわけです。
この言い分には、「かつての大日本帝国のように」という枕詞がつくのですが。

で、この話をきくたびに、私はいつも思うことがあります。
もしも「憲法9条があれば、戦争は防げる」というのであれば、かつての「大日本帝国のとき」の例をどうしてもっと、つまびらかに主張しないのか?
すなわち
「もしも、かつての支那に国民党軍も人民解放軍もなく、憲法9条があったら、大日本帝国の侵略から支那を守れたはずである。支那が侵略を受けたのは、憲法9条がなかったためである」
という画期的な主張ですな(笑)

いや、もしも、上記の主張を「歴史に学ぶ」という趣旨で、マジメに主張する政党があれば、少なくともその「論理の一貫性」において、私は間違いなく評価しますよ。

それとも、ナニかね?憲法9条という代物は、「日本だけに特異的に効き目がある」ものなのかね?
それは、「日本だけは特別な国である」という論理的帰結になるのである。

そういう考え方を「ナショナリズム」というのではないかなあ(笑)。

まあ、私としては、平易なる論理を一貫させた「平和政党」の出現を心待ちにしていることである。
そんなエライやつは、、、まあ、出て来ない、わな(苦笑)