Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

パインズ

「パインズ」ブレイク・クラウチ。副題は「美しい地獄」。

3部作の第1作である。
もっとも、著者は最初から3部作にするつもりだったのではなく、この本1冊で終わるつもりだったようである。
本書が好評で、なんと映像化までされたため、その余勢をかって次作、次々作を書いたものらしい。
よって、本書1冊で充分に楽しめる作品となっている。

物語の冒頭では、主人公には名前すらない。記憶喪失で忘れているのである。
川縁で倒れており、ようやく目をさました主人公は、近くの住民にきく。
「あのう、ここはどこでしょうか?」
そこで、ウェイワード・パインズという町の名前を知る。実は、この町そのものが主人公なのである。

原因不明の頭痛に悩まされる一方、主人公は徐々に記憶を取り戻していく。
名前はイーサンであり、職業はシークレットサービスの捜査官。
この町には、失踪した同僚を探しに来た。ところが、町に入った途端、乗っていた自動車がトラックと事故。
一緒に来ていた同僚のうち、1名は即死。もう1名の女性捜査官の行方も分からない。
なにしろ、事故の後で自分がどうして川縁に倒れていたかも分からず、身分証も財布もない。
文無しの身で、やむなくホテルに事情を話して投宿する。
自宅に電話してみるが、留守番電話しかならない。
職場に電話してみると、見知らぬ新人の女性が電話番になっており、上司は忙しいので取り次げない、用件を、としか言わない。
やむなく伝言を依頼するものの、いっこうにコールバックがかかってこない。
翌日、保安官事務所に出向き、顛末を伝えると、一緒に捜査に協力しようと言われるものの、なにやら態度がおかしい。
バーで親切にしてくれたバーテンの女の子の自宅を訪ねると、そこは廃墟で、なんと行方不明になった失踪捜査官が変わり果てた姿で発見することになる。
保安官事務所に戻り、再び事情を話すと、今度は「お前が怪しい」となる。
拘束されるいわれはない、と拒否して、駐車中のクルマを盗み隣町をめがけて逃走するも、なぜか道は湾曲して、再びパインズに戻ってきてしまい、どうしても脱出できない。
保安官も追ってきて、ついには逃走の体力が尽きてしまい、気がつくと病院の中。
ほっとするのもつかの間、医師はイーサンの精神病を疑い、挙げ句の果てに、なにやら怪しげな手術をすると言い出す。
すきをみて逃亡するイーサン。
気がつくと、町中の電話が一斉に鳴り、住民がこぞって彼を追跡し始める。
バーテンの女の子が現れて、一時、墓地にかくまってくれるが、そこでイーサンはこの町の異常さを教えられる。
再び追っ手がかかり、逃亡するイーサン。
バーテンの女の子は、哀れにも追っ手に捕まり無惨に殺されてしまう。
イーサンは、バーテンの子から聞いた情報をもとに、最初に倒れていた川づたいに上流へ逃げる。
川の上流にたどり着くと、そこには高圧電流を流したフェンスが張られている。
そのフェンスを崖を登って迂回すると、そこに見たこともない風景が現れる。
奇妙な恐ろしい生き物が跋扈する世界で、イーサンは命からがら、巨大な通気口のようなところの中に逃げ込む。
その中で見たものは、おそろしいパインズの真実の姿だった。
事実を知ったイーサンだが、家族のため、ついに「決断」をすることになる。。。


作者は、1990年に話題になったドラマ「ツインピークス」にはまっており、いつか、そのドラマに決着をつけたいと願っていたのだという。
本作はそういうわけで、ツインピークスに対するオマージュ作品なのである。
なるほどねえ。

評価は☆☆。
なかなか、面白かった。私の好みである。

日本の大多数の読書子には受けないのかもしれないが、こういうSFが、私は好きだ。
日本のSFファンは、どういうわけか50年代60年代でとまっていて、それからいきなりハードSFのホーガンあたりにすっ飛んでしまう人が多いように思う。
その間はNW-SFが世界を席巻したわけだが、日本のSFファンはそういう思弁的小説がいまいちお好みにあわなかったらしい。
理由はなんとなくわかる。日本の70年代は、いまだ80年代のバブルに向けてばく進中だったから。思弁よりも現実が「なんとなくクリスタル」で忙しかったのだ。
思弁小説に必要な現実の閉塞感がなかったので、これは仕方がない。
日本でもツインピークスが流行ったのは、そこでようやくバブル崩壊で、やっと閉塞感や先行き不安を、一部の鋭い人が感じ始めていたからだろう。
その後、日本では「エヴァンゲリオン」がでて、ようやく西欧のNWの地平に遅ればせながら到達することになる。


自分が置かれている状況の「なにかおかしい」「この町は狂っている」「しかし、信じたくないが、ひょっとしておかしいのは自分ではないか?」
というテーゼは、もっともNWで使われたテーマだし、ディック作品などにも頻出するシチュエーションだ。
そういう「自分」という存在に対する疑義と、最後に出てくる「受容(ある意味でやむにやまれぬ諦観である)」の深さが、本書の魅力であろう。
たいへん良くできた作品で、欧米で評価が高いのも(日本ではイマイチなのも)頷ける。
3部作だが、続編も読みたくなってきた。

我々自身も、生まれたときの環境やら、その後のしがらみや人間関係、経済状況などもあり、誰だってそういう「世間」を身にまとって生きている。
ときとして、それが「見えない壁」のように思われたとしても、それは無理もないことだ。
私だって、若いときはそう思い、その壁を突破しようと努力もしたのである。

今だって、壁はある。
いやな思いもするが、しかし、まあそんなものだと思っている。受容したと思わない。諦めたのである。
諦めたら、すこし楽になった。
いや、全部諦め切れたわけでもないんですが、、、ま、それなり、でしょうなあ。