Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

韓非子


自治体相手の仕事などもやっているもので、この2月3月になると、大変な状況になるわけである。
それでも、2月をようよう乗り切った。やれやれ。
後半は少し早く帰って、休日出勤もなくなったので、冬季五輪をしっかり見てしまった。
日本選手の頑張りには素直に感動。
私は、毎度、冬季五輪ではカーリングを最大の楽しみにしているわけだが、今年も4年に1回のブームとなった(笑)。
あれは、氷がレフ板の役目を果たすので、女性が美人に見える効果がある(ネタバレか)。
それよりも、むしろ「ギリギリの戦い」ぶりが面白く、手に汗握りましたねえ。
常に最善手のみなく「次善の策」を用意して、可能な限り相手にプレッシャーをかける。
体力、知力だけでなく精神力が強く問われるところが醍醐味なんですな。

まあ、そんな状況なので、読書のほうははかどらず、ボツボツと合間に目を通す程度。
で、この「韓非子」が面白い。

私は、岩波の「韓非子」は読みやすくて名著だと思っていますが、原典の成立した背景とか事情を知らないと、何を行っているのか趣旨の理解に苦しむ場面がある。
いかな名著も、時代の変遷という波を免れないわけであります。
ちなみに、マルクスが読みにくいのは、彼の造語の概念が頻出することのほかに、この「時代性」が強いことがあげられると思う。
つまり、同時代人じゃないと分からない例え話とか引用が多すぎるわけである。
論文テキストというよりも、週刊誌の特集記事みたいな感じだと言ったら言い過ぎ(苦笑)

この安能版韓非子は、オリジナルの抄訳に著者独自の解説をつけた作品である。

韓非子といえば「諸子百家」の中でも特に始皇帝の秦(china=支那)に影響を与えた法家思想の大家である。
この韓非子の最大の業績は「政治と道徳の分離」であろう。

韓非子以前の政治家といえば儒家が代表なのだが、その思想を一言でいえば
「立派な徳のある人が治めれば天下は治まる」(修身斉家治国平天下)である。
もっと簡単に言うと
「道徳的にもっとも優れた人がトップである」のであり、公というものは「正しくなくてはいけない」のである。
このような「徳」と「政治」の混同=徳治主義は、いまだに日本人の中にもなんとなく浸透していると思う。

それに対して、韓非子は政治に必要なのは「勢」であると説く。
「勢」というのは、体制であり、権力のことである。
人がトップに従うのは、トップが権力を持っているからだ、と身も蓋もなく韓非子は言う。
徳に優れた人など、1000人に一人もいない。
そうすると、逆に平凡な999人の王が治めるとき、人は不幸なまま、ただ愚痴をこぼして暮らすしかない。
そうではないと韓非子は言う。
政治を行うのは「法術」であると言う。
法はご存知のとおり、決まりである。
術は、法を守らせる手法であり、体制のことなのである。
この法術がきちんと整備されていれば国は強国であり人々は安寧である、と韓非子は言う。
そこには「徳」はないのである。もちろん、いわゆる「正義」もない。あえていえば、権力があるものが正義である。
そうすれば、世の中に乱れはないというわけである。


評価は☆。
原典が大著(岩波版で全4冊)であるので、上下二冊にそのエッセンスを詰め込んだのは労作というべきである。
よく韓非子のいうところを伝えているように思う。
日本の法律は、ローマ法を継受した近代法に基づいており、決して法家思想に源流はない。
今の世界のどこにも、法家思想を受け継いだ国家はないのである。
しかしながら、本書を読んでみると、韓非子が発見した「政治」が、現代にも充分通用するものであることを知って驚かされる。
その「面白くなさ」「やりきれなさ」も含めてである。
人間の観察者としても、韓非子は一流であった。

ただ、仮に現代に韓非子が生きていたとしても、やっぱり煙たがられてオシマイだったでしょうな。
ホントのことをズケズケ言う人物が好まれるはずがないのでねえ(苦笑)