Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

リヴァイアサン


同名の有名なT・ホッブスの著書は有名である。「万人の万人に対する闘争」を自然状態であると位置づけ、社会契約によってここに秩序を持ち込もうとする。そのために国家があって、その国家は権威によって万能である。国家を止めることは誰にも出来ない。伝説上のリヴァイアサン(怪獣)なのだ、と説く。

このオースターの「リヴァイアサン」は、その手に負えない猛獣である国家に、暴走を止めさせようと苦闘した男の姿を描く。その男が本書で描かれる爆弾男、ベン・サックスである。

本書はある作家の手記という体裁をとっている。作家の名はピーター。
そして、大雪で朗読会が中止になったバーで、ピーターと同じように猛吹雪の中を律儀にやってきた作家がサックスだった。
二人は、たちまちうち解け、無二の友人となる。
サックスは当時すでに結婚していた。その夫人は、なんとピーターの学生時代のあこがれの人だった。
ピーターも結婚するが、その結婚はうまくいかず、息子一人をもうけたものの破局する。
そのなかで、ついにピーターはサックス夫人と不倫をしてしまう。
それを知ったサックスは、しかし、ピーターをまったく責めなかった。こんなことで我々の友情が壊れるのは本意でない、と宣言するのだ。
しかし、言うまでもないがサックスは苦しんでいた。

ピーターは、妻と別れてからは女性遍歴を重ねる。その中で、ちょっと変わった女性がいた。
その女性とパーティ会場で出会ったサックスは、誤って会場ビルのベランダから転落する。
さいわい、いくつかの傷を負ったものの、サックスは無事に回復することができた。
しかし、この事件をきっかけにサックスは人が変わってしまい、都会を離れて小説執筆に打ち込む。
ついにはサックスも夫人と別れてしまう。

自然を友としながら著作に打ち込むサックスだが、ある日、山道を散歩していたところ、道を見失って一晩を山中で明かす。
彼を助けてくれたトラック運転手と一緒に帰宅しようとしたサックスは、不審な乗用車と行き交う。
乗用車の人物は、トラック運転手を射殺。助けようとしたサックスは、乗用車の人物を撲殺してしまう。
この事件の真相は迷宮入りとなったが、人を殺してしまった自責の念の深いサックスは、乗用車の人物の夫人を捜し出し、彼女に償いを行おうとする。
乗用車の人物が残した出所不明の多額のカネを彼女に渡そうとしたのである。
その生活の中で、乗用車の人物の残した手記を読んだサックスは、ついに彼の遺志を継ごうと決める。
それは、建国の精神を失いつつあるアメリカに、目を覚まさせるというものだった。
サックスが選んだ方法は爆弾魔である。
全米にはおよそ200体に及ぶ自由の女神像のレプリカがあるらしい。
その自由の女神像を爆破するのがサックスの行った方法だった。
ひとけのない夜、突然爆弾が爆発して自由の女神像が破壊される事件が連続して起こる。
自由の女神連続爆破犯の犯人がサックスだったのだ。

そして、ある日。爆弾を作ろうとしていたサックスは手順を誤り、突然爆発した爆弾のためにバラバラになって死ぬ。
ピーターのもとに、事情を聞こうとしたFBIが訪れて幕となる。


ふうむ、なるほどなあ、、、という感じである。
自由の女神を爆破する爆弾魔が、実はかつて、将来を嘱望された作家であるサックスだった。
人はそれを転落というであろうが、サックスはそうなるより、ほかに無かった。
ペンが爆弾になってしまったのだ。
なぜそうなったか、それを本書は丹念に描いていくのである。

さすがに高評価を得た作品で、読み応えは充分。
☆☆である。

この年になると、ほんとうに思うのであるが、人間、何がきっかけで、どんなことになるか分からぬものである。
先にオウム真理教の幹部達が教祖ともども死刑執行されたが、世間も羨む高学歴の彼らは、ふとヨガに興味をもって麻原の主宰するヨガ教室に通ったことがきっかけになったものがほとんどだ。
腰痛治療や、あるいはちょっとした好奇心で、ヨガ教室に通いはじめたことが、ついには絞首刑に処せられる仕儀につながっていく。
おそらく、最初から人を殺したり、国家転覆をたくらんだり、化学兵器をつくることが目的だった者はおるまい。
ただ、気がつくと、どっぷりと浸かった過激思想の宗教団体幹部として、事件を実行してしまう。
ついには、顔に袋をかけられ、後ろ手に縛られて、吊されることになるのである。

悪い、といえば、それはもちろん、悪い。
しかし、国家というリヴァイアサンを相手にしたが最期で、どこかで、人はまっとうな人生を歩めなくなるものなのかもしれない、と思う。
私は気が小さいので、そんな大それた道には、踏み込むつもりはない。
それでも「一歩間違えたら」という畏れを感じるのである。
我々の人生を、大過なく過ごすというのは、実は細い道を綱渡りするようなものなのではないかなあ。
落っこちないで渡れた人は、充分に幸運なのではないかと思う私大である。