よく日本の道路は狭くて自転車が走りづらい、と言いますが、私はそうかな?といつも疑問に思っております。
毎年のツール・ド・フランス(フランス)やブエルタ・エスパーニャ(スペイン)の動画を見ますが、正直、道幅は日本と変わらないと思います。市街地は特に狭いですね。
フランスではルノーやシトロエンなどの小型車が人気がありますが、あれを見るとわかります。とてもじゃないが、でかいベンツを振り回す余裕はありません。
で、自転車の国でもあるんですが、自動車ははっきりいって「諦めている」。つまり、狭い市街では、そもそも自動車の進入禁止の路地も多いし、人や自転車がウロウロしているので「自動車は走れなくて当たり前」だと思われているようです。「何が何でも自動車は当然に歩行者や自転車よりも便利であって当たり前」だと日本人は思っている(と私は思う)のですが、そういう前提がない。つまり、常識が違うわけです。
最近ではグーグルのおかげで世界中の街が見られますが、道幅についてみれば、これらの欧州は日本より道幅が広いというのは少なくとも嘘だとわかります。
やっぱり違うな、と思うのは米国ですな。これは文句なし。どこでも道路幅は日本の倍以上ある。米国に比べたら、日本も欧州も道幅は狭いです。
意外に道幅が広いのは韓国ですね。戦争で一回リセットされたためか、日本より道幅は広い。しかし、韓国の道路で自転車をこぐ勇気は私にはないですね。ほんとうに死んでしまうからです。
同じことは大陸であってもいえます。
つまりは、法律はどうあれ、日本、韓国、大陸は「道路では自動車が優先されるべきものであって、もっとも便利であるべきだ」という常識が共通しています。
これは、なぜでしょうか?
私は、この3カ国に共通する「儒教の影響」のためだと考えております。
韓国ではわかりやすいのですが(最近は大陸もそうらしい)「自転車は子供の乗り物であって、立派なオトナが乗るものではない」という考えがあるようです。
これは儒教に残る読書人、士大夫階級が偉いという考え方の影響でしょう。
儒教では、偉い人は自分で汗をかいて移動することはない。基本的に士大夫階級が移動するときは、馬車に乗ったり人足がコシをかついだりしますが、自分の二本の足で頑張ることはしない。それが偉い人だ、というわけです。読書人というくらいで、なんなら家事もしない、そういうのは下人にさせる。
現代では馬車もコシもありませんが、そのかわりが自動車です。
つまり、座ったままで(なんならエアコンを効かせて)自分が汗をかかずに移動します。それこそが「偉い」人の証明になります。
この考え方は、路上でそのまま適用されます。
すなわち、社会的な地位も教養も似たりよったりの二人の人物がいたとします。
で、一人が自動車に乗り、もうひとりが自転車に乗ったとします。
すると、自らの足で移動しない自動車に乗っている人のほうが「偉い」ことになります。なので、そこどけ、となる。
二人は人間としては同じぐらいのレベルであるけど、自動車に乗ったほうが「偉い」となるのです。
不良学生が改造自動車に乗った途端に自分が強者になったと錯覚するのと似ています。
これは、儒教の作法がそのまま、染み付いているからです。
そうすると、冒頭の欧州の事情の違いがわかります。
欧州には、儒教の影響がありません。そうなると、自動車に乗っていようが、自転車に乗っていようが、同じ人間というカテゴリになります。
自動車に乗る人間が偉くなるロジックがないので、単なる一人の人間として、他の交通者と混在する。どうしても不便になるので、不便が常識になってしまうというわけです。
常日頃、朝鮮文化をなにかとバカにしがちな日本人も多いと思いますが、自転車乗りの視点から見ると、大した違いはありません(苦笑)