Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

禁忌

「禁忌」フェルデナント・フォン・シーラッハ。

シーラッハの小説は「全部大当たり」という、奇跡としかいいようがない粒揃いの作品であるわけだ。異論は認めない。
で、その著者による長編第二作。

前半の主人公はエッシュブルクという名家の子息として生まれた男である。しかし、彼の世界はかなり変わっている。おそらく、一種の自閉症に近いのだろうと思うのだが、言葉を適切に紡ぐ能力には欠けているようである。
一方、色彩感覚は独自のものがあるようだ。
父親はある日、銃で頭を吹き飛ばして自殺してしまい、家は傾く。エッシュブルクは家出同然にこの生家を出る。
彼はある写真館に住み込みで働き、写真の技術を身に付ける。数年して独立する。
やがて、彼は欧州の展示会業界で活躍する若い女性と知り合い、彼女の理解を得て広告写真の分野に進出して成功をおさめる。
写真の個展を開くようになり、ここでも大評判をとる。
だが、エッシュブルクはさらに深い表現を目指していた。コンピュータで複数の人間の画像を重ねて合成するショウを作り始めるのだ。

後半は、主人公が交代し、弁護士のビーグラーが登場する。
彼は過労から体調を崩して休養中だったが、ある刑事事件の被疑者が自分の弁護を希望しているというので現場に戻ることにした。
その被疑者が高名な写真家のエッシュブルクであった。
彼は犯罪を自供したというが、その自供では拷問が用いられた形跡があった。
さらに、彼のアトリエからは様々なSMプレイの道具やら女性の血痕まで発見された。警察は「助けてほしい」という女性の電話があり、その電話がそこで途切れてしまったことでエッシュブルクのアトリエに踏み込んでいる。
エッシュブルクは自供したというが被害者の名前も言わず、さらに死体もまったく発見されない。
エッシュブルクに面会したビーグラーは、死体はどうしたのか?と尋ねる。エッシュブルクは塩酸で溶かしたと答える。ビーグラーは、塩酸では死体は処理できないことを知っていたので、嘘をつくエッシュブルクの弁護を一度は断る。
しかし、エッシュブルクから、自分の過去の発言の真意を聞かれたことで考えを変えて、彼の弁護をすることにした。
法定では、エッシュブルクを尋問した正義感あふれる刑事が尋問され、拷問の事実を認めた上で、被害者を救うためなら自分は躊躇しないのだと主張する。
その主張にビーグラーは大きく感銘を受けながらも、一人の人間が検事も裁判官も兼ねることは正義にもとる、と反論する。
法廷は、ビーグラーの主張を受け入れ、拷問に基づく証拠を不採用とし、この時点でエッシュブルクの無罪はほぼ決まっている。
最後に被疑者の主張の時間になり、エッシュブルクは大型液晶モニタを用意させて法廷で自分の作品を上映した。
このエッシュブルクの被疑事件そのものが彼の作品を構成する一部なのであった。
エッシュブルクは最後にビーグラーに尋ねる。「罪とは、なんですか?」
ビーグラーは回答しなかった。。。


これは衝撃の作品である。
タイトルは「禁忌」だが、これの意味は明白だ。禁忌を描いた作品なのである。
我々が持っている罪とは何かという概念を壊すのだ。
評価は☆☆☆。
ページ数としては多くない作品であるが、その威力はヘビー級だ。

昔、大学生の法学部だった頃「法の地平」という話があった。
刑法には、実は殺人罪以外にも死刑を適用される犯罪がある。「内乱罪」である。内乱を起こしたものは死刑である。
しかし、である。
内乱の結果、その内乱が成功して新政府が成立したら、いったいこの「内乱罪」は適用されるだろうか?ということである。
歴史に例を取れば、明治維新は明らかに「成功した内乱」であるが、いったい新政府の誰が罪であったか?彼らは、多くの人を殺したのに。

罪とは何か。
ビーグラーは最後に「罪とは人間さ」と独白している。