Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

勝者の歴史

昨日、小説「妙麟の感想を書いたのであるが、攻城戦で名を馳せた女傑といえば、あの大阪城淀殿もそうではないかと思いついた。天下の巨城を実質的に差配し、家康に敗れて悪しざまに言われているが、考えてみれば大阪攻めの時点では、天下を相手に戦ったに等しい。冬の陣で天守閣に大砲を打ち込まれ、震え上がって和睦をし、そのまま外堀も内堀も埋められてしまって裸城にされて陥落するのだが、仮に誰が城主であっても、もはや守れたとは思えないのである。

浪人の真田幸村後藤又兵衛、長曾我部盛親らを起用していったん冬の陣は凌いだわけで、充分な実績であると思う。

 

で、実はこの淀殿の呼び名であるが、当時は「淀の方」あるいは「淀殿」と呼ばれていた。

江戸時代になって、徳川が正義の世の中になり、「淀君」と呼ぶようにされてしまったのである。「◯◯の君」という呼び名は、吉原の太夫の呼び方である。つまり、徳川は「徳川史観」を浸透させるために、一軍を率いた女性を遊女の呼び方に変えてしまったのだ。

 

そういう事情があるから、私はまず「淀君」という呼び方をしない。必ず「淀殿」または「淀の方」と呼ぶようにしている。勝てば官軍がこの世の習いということはよく知っているが、死後に蔑称をつけるというのは、あまりに姑息であると思うからである。

少なくとも、勝った側がやるべきことと思わない。

そんな世論操作が必要だったということは、徳川はこの戦いに、ほんとうはずいぶん後ろ暗いところがあるからでしょ?と言いたくなるのだ。

 

ま、そんなひねくれたことを考えているやつが、たまにはいてもいいでしょう。