Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

秘録 東京裁判

「秘録 東京裁判清瀬一郎。

東京裁判で有名な「清瀬動議」を行った弁護人、清瀬一郎の東京裁判回想記である。

清瀬動議とは、「そもそも、戦勝国である連合国は、この戦争の当事者であるから、裁判を管轄する権利がない」という主張である。勝者によって捌かれる裁判などあり得ない、という清瀬の主張は、法理的には「原告が被告を裁く」裁判などあり得ないので、まったく正当なものであると言える。

回答に窮したウェッブ裁判長は「後ほど回答する」と応えた。その「後ほど」は、今日に至るまでない。応えようがないので当たり前である。

しかしながら、この清瀬動議がいかに正当なものであろうと(正当であると当然思われるけれども)そのゆえに東京裁判が無効であるという立場をとる国家は、私の知るところ世界に一国もない。
これを素直に考えれば、以下のような推測が成り立って当然である。つまり
・我々が個人的な思惟の中で「正当である」と判断することと
・国家なかんづく国際社会が「正当である」と見なす(つまり歴史をつくる)ということ
は、ぜんぜん一致すると限らないということである。

もっと簡単にいえば、裁判がたとえ法理的にいかに奇妙奇天烈なものであろうと、それによって日本が武力を放棄し、連合国という「勝者」によって国際平和が招来されるならば、それを正義と呼ぶ、ということである。
もとより、はじめから「正義である事柄」が存在するのでなく、ある事柄が「正義になる」というわけである。
法理的にいえば「事後法」という誤謬であることが、政治的には「正しい」とされるケースの好例であるといえるだろう。

著者の清瀬氏が、巻末に近く、平和の実現のためには我らの子孫の「数十世代を要するか」と慨嘆しているのは、この「正義」に対する喩えようのない無力感の故である。
この意味が分からぬものは、この慨嘆を批判するだろうけど、しかし、個々人の正義と歴史上の正義とされる事物が異なるという事実、人々も各々の国家もそれぞれの「正義」の実現のために邁進するという事実、そして結果によっていかようにも変わるのが「歴史評価」であり、それによって左右されるのが「正義」であるという事実を前に考えれば、私は清瀬氏が感じた深い絶望を感じないわけにはいかない。

評価は☆☆。
この憐れなる我が国の歴史を知らんと欲するならば、まずは必読の書であろう。

私は思う。
我々が「平和」をもしも実現するためには、逆説的な話であるが「正義」をすっぱりと諦める必要がある。「平和」でありさえすれば良いという「豚の平和」を我々は甘受する必要がある。正義を唱えるソクラテスこそが、実は争いのタネであるという思想である。
進歩も不条理も平等も、すべてを諦めて、我々は全き平和の世界に到達するだろうと思う。それは、個々人にとっては「平和という名の檻」にしかすぎないかもしれない。あるいは「この世」という名前の終身刑に等しいことかもしれない。しかし、それを甘受してこそ、初めて平和が実現されるのである。

もしそうならば、平和というものの価値はなんであるか?

小林秀雄は「反省したいものはたんとするが良い。僕はアタマが良くないから、反省なんかしない。あの戦争はそうでなかった」と述べている。
小林が言ったのは、たぶん、戦争そのものでない。戦争を「反省」したときの思想を彼は撃っている。小林は、豚の平和を拒否し、ソクラテスであることを望んだ。

私は、ソクラテスであることを羨望するけれども、豚の平和を甘受する。ソクラテスへの羨望を私の中で殺せるだろうか?そうできれば、きっとずいぶん楽になるだろうと思うのだ。