Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

負け戦の始末

68年前の今日、長崎に二発目の原爆が投下され、ソ連が対日参戦した。
日本は、ついにポツダム宣言受諾による降伏へと動き出す。

日本降伏の要因について、アメリカは原爆投下だといい、ソ連中共ソ連対日参戦である、と主張してきた。アメリカは原爆投下を正当化したいし、共産圏はソ連の対日参戦を正当化したいからだ。
しかし、事実は、その両方であろう。

終戦工作については、大きく2つの勢力があったことを認識しなくてはならない。
対ソ工作を行なってきたのは、重光葵や陸軍であった。
彼らは、小野寺報告(ヤルタ協定を報告)を握りつぶし、重慶工作を拒否することで小磯内閣を倒した。
重慶工作とは何か?
そもそも、大東亜戦争支那事変がもとであり、日本軍が支那蒋介石相手に勝手に戦線を拡大したことにはじまる。そして、英米蒋介石支援が戦争の大義名分であった。
それゆえ、蒋介石と和睦してしまえば、彼らは戦争の継続についての名分を失う。
この着想に基づいて動いたのが重慶工作であるが、これは、陸軍や外務省閥(松岡や重光)には、自分たちの路線が間違いだったことを認めることとなり都合が悪かった。

重慶工作は、実は可能性があった。
蒋介石は、ヤルタ会談に呼ばれていない。
そして、トルーマンソ連参戦を引き出すために、勝手に満州鉄道や港湾の利権をソ連に与えていた。もしも、ソ連満州に攻め込んで来れば、中共と合同して、蒋介石の国民党は危機に陥る。
それゆえ、蒋介石は、ソ連参戦を食い止めるため、日本と和睦する腹があった。
俗にいう「繆斌工作」であるが、使者の繆斌は、戦後ただちに漢奸として処刑されている。
蒋介石にとっては、米ソに抜け駆けして日本と和睦しようとしたことを知っている人物であるので、都合が悪かった。

天皇側近の鈴木貫太郎、木戸、東久迩宮などは、ガダルカナル戦以後から「戦争のみによる終戦」は難しいと判断していた。これに、あとで海軍の米内が加わる。
しかし、彼ら側近派の内奏は、対立派閥によって巧妙にもみ消されていく。
天皇陛下がいよいよ危機感をもったのは、やはり原爆投下であっただろう。
終戦詔勅にも「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ」とある。
一般市民をいきなり大量虐殺するこの兵器について、天皇陛下は「民族の滅亡」とまで述べている。
対ソ参戦で「お前たちのいうことは、皆あてにならぬではないか」となった。
ここで、はじめて側近派が力を持ったのである。

よく、「もっと早く降伏していれば、あのような惨禍はなかった」として、当時の指導部への批判がされることがある。
たしかに、そのように見えるのであるが、ソ連ヤルタ協定に基づく自分の利権を確保するまで、アメリカの停戦命令が出ても無視して戦闘を続けた。
そのソ連の参戦を熱望したアメリカは、ポツダム宣言スターリンに無断で出している。
ソ連ポツダム宣言に加わったのは8月8日であり、それまでは蒋介石満州の利権を「よこせ」「やれない」と押し問答をやっていたのである。
連合国が勝手に各々の思惑で動く中、仮に日本の指導部が早期降伏を決心しても、果たしてうまくいったかどうか?私は疑問に思っている。

唯一の可能性があったのは、重慶工作だけであった。
その機会は、くだらない面子の張り合い、派閥抗争によって潰えたのである。

派閥抗争によって政治が国益を損ねることは多いが、なかでも、この終戦工作はその最たるものであろう。

我々は「なぜ戦争が起こったか」ばかりを問題にしがちである。
あの戦争の始まりは、一見、実にわけのわからない経緯であるからだ。
しかし、戦況が不利になったときに、なぜうまく終結できなかったのか?
あるいは、あれでも、実はうまく終結したほうだったのか?
「もっと早く降伏していれば」は、ないものねだりなのか。
そのあたりについては、もっと議論が必要なのではないかと思う次第である。

誰でも勝ったときは気持ちがいいですが。
世の中をみていると、負け戦の始末の方が、その後の命運を大きく変えるような気がしますなあ。