Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

告白という文化について

与太話をひとつ。

 

日本の恋愛コンテンツ(小説、マンガ、アニメ)を見ると、「告白」というやつがクライマックスにくることが多い。読者としては「おお、ついに言ったか!」となって、その結末を見て「うんうん」と納得するというのが王道パターンである。

ところが、日本の文化を愛してやまないフランスを筆頭に、この「告白」文化が相当に独特なものに見えるらしい。というのも、かの国の恋愛において「告白」なる儀式(彼らには儀式つまりセレモニィに見えるのだな)は存在しないからだそうだ。「いいなと思ったら、なんとなく付き合う」のが普通なのだとか。で、これはたとえば支那や半島においても同様らしい。まあ、半島は若干、日本の影響があったので(特に韓流ドラマはほぼ日本の昭和ドラマのパターンを踏襲しているようなので、それゆえに中高年の女性に人気が高い)やや似たような儀式が見られることはあるけど。

 

日本人として暮らしていると、恋愛において「告白するかどうか」(今風にいうとコクる、というらしい)は大問題である。なにしろ、お付き合いをするためには、告白しないといけないのだ。

逆に、フランス風に「なんとなく付き合う」状態だと、それは下手をすると「身体だけの関係」ということになりかねず、よって「身体の関係がすでにあるのに告白するかどうか迷う」というおかしな状態も起こる。こうなると、もはや外国人には理解不能であるらしい。「告白」という前提がない恋愛が普通の世界では、さもありなん。

 

どうして、日本の恋愛において「告白」なるものが必要になったのか?考えてみたのだが、平安の昔においては恋心は和歌を通じて伝える文化があった。その後、明治維新前では自由恋愛そののが存在しない世界であるから、その伝統も途切れていたと思われる。明治になり、和歌がすたれて散文になり、その散文が和歌にとってかわったものであろうか。

夏目漱石に言わせると「I love you」は「月が綺麗ですね」なのだが、これは告白とは言うまい。しかし、その後の三部作の「三四郎」「それから」「こころ」になると、告白シーンが明らかに登場する。どれも悲劇に終わるわけですが。

したがって、明治の自由恋愛と同時に、すでに告白文化は登場したと見て良いのではないかと思う。思えば、不思議な話である。

それにしてもフランス人。「いいと思ったら、なんとなく付き合う」ってさあ、、、それではケダモノと変わらぬではありませぬか。万物の霊長であれば、やはり告白したほうが良い、、、と思うのは日本人だからでしょう。

 

で、その告白ですが。

したことも、されたこともあり。もちろん、告白した挙げ句に「桜散る」だったことも当然に(それなりに)あるのですが。なぜか、はっきり覚えているのは、うまくいったときのことだけなんですね。悪いことは忘れてしまうのか。そこまで脳天気なのか。でも、受け入れてもらえた時の嬉しさはやっぱり鮮明なものであります。大抵のことは、過ぎてしまえば思い出になるのですなあ。