Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

日本の行く道

「日本の行く道」橋本治

著者の「乱世を生きる市場原理は嘘かもしれない」の続編である。やはり年末リフレッシュの一環で読んだ。

出足は快調。「子供のいじめ」問題から入る。
昔から「いじめっ子」という存在はいたわけで、「いじめ」が新しいわけではない。しかし、いじめられた子供が一人悩んで自殺してしまう。これが現代である、という。
そして、「いじめっ子」は「前近代」であり、いわば「勉強できない子」が地域で自己主張する方法だったのに引きかえ、今の子供は完全に「近代」になってしまったからだ、これが原因と喝破する。
平たく言えば「地域社会」がなくなって、子供にとって「家庭と学校」がすべてになってしまった、だから子供は「親殺し」をしたり「いじめ自殺」をしたりする、家庭も学校も「近代」なので、子供は子供でなく「小さな大人」になることを求められるから逃げ場がない、ということですな。
なんとなく、わかるような気がする話である。

そして、子供の「学力低下」は「ゆとり教育」とは関係なく「近代」だからだ、とする。
その「近代」はいつか?それは、中曽根内閣が「国民一人あたり200ドルの外国製品を買いましょう」と言ったときだと。
つまり「豊かになった」ので「なんで勉強しなきゃいけないの」と言われたときに、もう回答がなくなったのだ、という。ふうむ、であります。

さて。それじゃあ、いったいどうすればいいのか?
ここで著者は大胆不敵な提案をする「超高層ビルを壊そう」つまりは「江戸=前近代(著者の定義)に帰ろう」ということである。
ここで、面白い話がでる。「そもそも、日本はなぜ近代化したのか?」日本の近代化は、つまり明治維新である。
明治維新について、「そもそも尊皇攘夷の志士が、なんでコペルニクス的転換をして開国、富国強兵路線になったのか?」という問題のたてかたである。
そして、橋本治は瞠目すべき指摘をする。「戦争に負けたからだ」
薩摩は薩英戦争に負け、長州は下関戦争で負けた。薩長だけが、敗戦の苦みを知っていた。だから「薩長土肥」でも「敗戦組」の薩長だけが明治以降の政治を主導して「近代化」をすすめていくのだと。
なにも大東亜戦争に限った話じゃない、それは明治からじゃないか、そう橋本は指摘するのである。

しかし、民衆は当時は「敗戦」を知らない、だから民衆は「近代化」の必要がわからない。そこで、学校をつくり、子供の近代化をすすめる。「勉強して立派な人物になれ」と教える。こぼれたのが「いじめっ子」である。彼は「前近代」である。
敗戦を知っている明治の元勲は、自分たちの中から首相を指名し、近代化を進めることにした。(枢密院)
そもそも元勲がいなくなって、これが不可能になって、最後の元勲西園寺公望が首相推薦を会議制にしたとたん、いきなり戦争になる。
こてんぱんに大東亜戦争で負けて、今度は国民一人一人が「近代化」の必要を感じることとなり、一路経済成長に邁進した。
それが、中曽根内閣に至り、ついに行き詰まった。世界一になった日本人には目標がない。「敗戦コンプレックス」は、追いついたら終わりであった。以来、日本の迷走が始まる。
で、この際だから「近代化は古い」と言って、超高層ビルを壊してしまえ。すると中国があわてる。中国は、実は日本の発展の忠実な模倣をしているので、日本がそんなことをしたら、かなりおののく。その中国に「何をいまさら、そんな古いことをやっているんだね?」と言ってやる。
かくて、かの国は大混乱。我が国の国難は救われるのである---。

評価は☆。後半、まさに抱腹絶倒。ああ、腹の皮がよじれる(笑)。

橋本治という人は、ホントに奇想天外なことを言い出す人だ。しかし、視点は鋭い。日本の経済成長原動力が「敗戦コンプレックス」だという指摘は、実にうなずかされるものだ。
(私は、憲法改正の折には「本憲法の改正には外圧を要するものとする」と書いておけ、という案をもっている)
日本の閉塞感が「子供」に現れる、なんて切り口もいい。
高層ビルをぶっこわすのも、実にいい。実現できそうもないところが、またいい。

ただねえ。
私は、自転車乗りとして言うが、日本がビルを壊しても、中国は蛙の面にショ○ベンだと思うよ。
だって、欧州を見よ。自転車大国ばかりだぞ。ドイツ、フランス、オランダ、イタリア。でかいクルマに乗っているのは、おつむの程度に問題があるということになっている。
しかるに、アジアはみんな「クルマが自転車より偉い」と信じて疑わない文化だ。そもそも、欧州的価値観を受け入れる土壌が、アジアにはないと思うのである(死刑制度なんかも典型だな)

まあ、心配しなくても、このまま順調にいけば「経済敗戦」ですからね。「円破綻敗戦」「国家破綻敗戦」「ドル連鎖敗戦」「資源争奪敗戦」などなど。よって、またコンプレックスでがんばれるようになるのではないか、と思うのですな(苦笑)。

補記)
本書には「格差社会」なんてない、という指摘もあります。「格差」はあるけど「社会」はないだろう、というのです。昔は、貧乏人同士が暮らしている町がありました。つまり「貧乏な人同士の社会」です。今は、あるのは「貧乏人」だけで「社会」じゃない。そういえば、今の山谷は、外国人バックパッカーの町になっています。キューポラのある町の川口も、その名称をいやがっているのか、最近では鋳物工場はつぶれてマンションが建ち並ぶようになりました。