Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ!?

ロゴスとは、時に意外な答えを導くことがあるものである。
しかし、一面の真実を示すものだ。

実は、A級戦犯靖国合祀に関して
「戦死でなく、戦争裁判で刑死した人を祀るのはいかがなものか」
という意見があることを知った。
これは一考の価値がある意見であると思ったのだ。

実務的な問題ではない。神道では、一度お祀りしたら、もう人ではなく神である。
神様が、人間の都合によって神になったり人間に戻されたりしたら、そりゃ神とは言わんのである。
よって、宗教で有る以上、今さらどうしようもない、というのが結論なんであるが。

ところで、処刑されたA級戦犯の扱いであるが、公務上の殉死、ということになっている。
戦死ではない。
靖国神社は、もともと官軍(勝ったから官軍だ)の戦死者をお祀りする神社である。
公務死している人を、戦没者と同じくお祀りしていることになる。
当時の国会が戦犯の赦免を決定し(共産党まで賛成しているから、国民の総意だろうな)厚生省の名簿に従って行われた行為らしいが、靖国神社側は格別に反対しなかったようだ。
ま、240万柱である。実際のところ、忙しくてそれどころじゃなかったかもしれない。

ところで、もしも「戦争指導者」という枠で考えるなら、多数の戦没者靖国にお祀りされている。
山本五十六だけではなく、たくさんの将官が、太平洋戦争において戦没しているのである。
日本海軍は、英国海軍に範をとったため、格別に戦死が多い(なにしろ、ネルソン提督が戦死した国だ)
陸軍は、プロイセン方式だったらしく、後方に司令部をおいたから、さほどでもないようだが。

さて、論理的に考えれば、以下のような結論が導き出されるはずである。
1)戦争指導者は、戦没者にも、生き残って東京裁判を受けた人にも存在している
2)靖国に戦争指導者の戦没者を祀っていることに関しては、とくに批判がないようだ。
生き残った戦争指導者=A級戦犯の合祀が問題である
3)すなわち、それらA級戦犯も、戦死していれば、合祀を問題にされてないはずである
4)よって、A級戦犯の合祀を問題にすることは、彼らが戦死しなかったことを問題にしていることに等しい
5)ゆえに、A級戦犯合祀に反対するのは、彼らが先陣訓「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」に反したことを問題にしているのである。

こういうことになってしまうではないか!?
なんと、A級戦犯の合祀に反対する人は、極右もいいところ、未だに東条英機の「先陣訓」を奉じる者達である、という結論が導かれるのである。。。

そんなバカなと思うのだが。。。
しかし、論理によれば明快に、当然、以下のような結論が導き出されるのである。

「もしも、A級戦犯が戦争指導者であるという理由をもって、靖国への合祀に反対するのであれば、戦没した戦争指導者についても等しく合祀に反対すべきである。もしもそうでなく、A級戦犯のみを問題にする場合には、その行動は戦争指導者が生き残って裁判で刑死した事実を問題にしていることになるから、まさに東条英機の先陣訓「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」をそのまま支持する行動ということになる」

すなわち、A級戦犯合祀に反対する人は、賛成する人達より、はるかに右よりな方々なんである。
人間は意識ではなく行動で規定されなければならんはずだ。「そんなつもりじゃない」は、単なる言い訳にしかすぎんのである。「だって、あんたのやっていることは、そう見えるじゃん」なんである。

屁理屈、とよく言われる。
しかし、「屁」という名前の理屈はない。
問題は、理屈がとおっているか否かであろう。
理屈が通らん主張を、支持するわけにはいかんではないか。
でなくて、どうして物事の理非を判断できると言うのだろう?単なる好みで決めるのか?
イデオロギーには興味がない。私は、ロゴスをききたいのだ。